エコとエゴ。一文字違いですが、随分と違います。
面白い図があったのでまず紹介します。
左の絵はエゴで、この図でいうと、人間を頂点とした人間中心的な発想。(歴史的に男性社会でしたので、男性を頂点とするヒエラルキー的な考え方)で全ての生物を人間の為に置いています。
一方、右の絵では、エコロジー的な発想で、生命を全て平等に見立てて、人間は頂点にも、中心にもいません。多様な生物の中の人間という種がいるという発想。また人間の中でも、男女も上とか下とかなく、それぞれが等価値の中に生存しています。犬も猫も含め、全体性の中に共存しています。大きな文脈でのエコをイメージしています。
大きな文脈では、エコであることが良いなと思う人は多いと思います。エコの発想を持つことが、生物多様性を守ることにも、近年穏やかではなりつつある地球環境を守ることにも、人間の在り方がシフトしていく為にも、ノーマライゼーションを推進していくことことにも繋がっていきます。
意識的には、こうした発想の中に我々の意識は突入していると思うのですが、我々の無意識の中にはまだまだエゴがはびこっています。それは無意識で、なかなか自分から外れていきません。なかなか気づけずに行動してしまうこともあるのですが、確実にエコロジー的な発想はゆっくりと進んで来ている気がします。学びや気づきが現実的に様々な場所で静かに起こっています。
思うに、世代交代と、メディア環境の転換が大きい気がします。これはエコだけではなくて、政治、芸能界、ビジネスの現場、家庭、街の在り方、働き方、ありとあらゆるものが静かに変わって来ています。世代交代というのは、社会の中でのボリュームの変化があると思います。
個人レベルで、エコになるにはどうすればいいのか。エコという名のついたエコノミー的発想の展開も実際には多い中、判断する基準も、言葉も、どれが本当なんだかよくわからない。そんなことも多いでしょう。
そんな時は、小さい声に耳を傾ける。声なき声に耳を傾ける。あたりが一番間違えがない。そんな風に思います。これまで言葉を発して来なかった小さい声に耳を傾けると、新しい全体性へのシフトが始まります。それは時に、統制が乱れるとか、合理的でないという理由で、封殺される場合もまだまだ多いかもしれません。しかし次への飛躍は、小さい声、マイノリティ発想にこそ、次の展開や拡大のヒントがあるように思います。大きな声の部分は、すでに飽和し、モノは、街にも、家庭にも溢れかえっています。新しい余地はこれまでと違う部分に注目していくことにこそ、未来への示唆が含まれているよう思います。
そして小さな声を聞くことは、社会の中だけでなく、我々一人一人の意識の中でも同じかもしれません。我々日本人も飽和の中にいます。次への発展よりも、飽和からの脱出、如何に自分らしさを人生に見出していくか。がいきているテーマになってきたのだと思います。成熟社会の成熟したニュートラル感、健全性が求められています。
自分の一番身近にある自然。声なき存在、それは身体です。身体がものを言うのは、健康診断の結果だけではありません。健康というのは、病気の反対でなく、範囲、バランスである。そのことを考えれば、ライフスタイル全体や、我々自身の意識、身体感覚や知覚を取り戻し、身体の健全性や調整力を取り戻すことがどれだけ健康に寄与するか、真の健康に対する理解が増えるだけでも大きなシフトです。
体の声を聞く機会。あなたという存在のエコへに気づき、長い目で見るとそれはあなたを確実に幸せに近づけていきます。