電車の中で寝る。いわゆる「居眠り」は日本独自の風習だそうです。
海外では電車の中で寝るのは、治安や盗難の意味からもないそうです。日本が寝ても大丈夫な治安を維持しているからこそできるのかも知れません。
なぜ寝れるのかは分かりませんが、僕もサラリーマン時代は電車の中で良く寝てた記憶があります。最近はあまり電車に乗りませんが、寝てる人が減ってきた気がします。寝るよりもスマホの方が、面白い、或いは、昔よりも労働時間が短くなってきて、電車の中で寝る必要が無くなったのか、或いは、治安や盗難が増えていて、うかつに眠れなくなってきたのか、とか色々と考えられます。
さて、眠るということを少しアングルを変えてみてみると、実際に目覚めているようでも、人は気づかぬうちに自分らしさから眠ってしまったりするものです。無意識でも基本的に大丈夫なんですが、やはり、何年かに一度、或いは人生の折り返しあたりで、一度目覚めてみるのがいいかも知れません。だいたい自分のことは自分では気がつきにくいものです。
人は、起きたり、眠ったりしながら人生を生きている、そんな風にも思えます。忙がしすぎる生活を送っていると、処理に意識が集中してしまって、今していることが、自分がやりたいことなのか、やる必要があることなのか、など、一切考えなくなり、ロボットのように日常を処理している、こなしていくことに没頭してしまって、そんな状況になっていること自体を忘れてしまって、気がつかないで、寝ているように年単位で過ぎていることさえあります。
情報化社会がそれに拍車がかかりました。、スマホに意識を取られて、自分の今とかけ離れたところに意識だけ、頭だけ持っていかれて、体は右往左往しながらズレ分を修正しようと頑張っていたりします。
体は小さい声で意識に語りかけてはいますが、なかなか体の声に頭、意識に気が付けません。
そうして、違和感や身体的な不調が出てきて、ようやく気が付いて、休みを取ったり、慌てて病院に行きます。
すると「ストレスが溜まってますね」とか、「過労気味ですね」とか言われて、薬を貰って症状を抑えたり、リラクゼーションや散歩を示唆されます。
起きていること。自分で考えて、自分の人生を送っていること。って意外に難しいことです。そういう風に考えてみると、自分に目覚めている人って、意外に少ないかも知れません。
自分でないものや、自分と関係ない情報を自分としている、そんな状態が、無意識にたくさん入ってしまっている人が多いです。
自分に目覚めたい。自分について理解したい。賢明な方はそんな欲求が心に現れます。これはリラクゼーションを受けていればいいものとは違うものであることに気が付いたりします。そんな時、人は、自分を熟考したり、自己啓発書を読んだり、セミナーに出たりして自己理解を深めたりするのでしょう。
言葉で考えていってもいいと思いますが、あまり言語化が得意でない方は、自分の体が教える声に耳を澄ましてみる、そんな時間は如何でしょうか。歪みやズレだらけだった、身体がニュートラルに変わる時、不思議なことですが、自分について理解が深まったり、今まで気が付けないことに気が付いたりするのです。体と心は繋がりがあります。