100分で名著、夏休みスペシャルで「走れメロス」が取り上げられていました。誰でも知っている太宰治の代表作の一つです。確か小学校の教科書で読んだ気がします。
(原作はこちらで青空文庫で読めます。→)
番組では主人公は誰?という切り口から語っていました。メロス、暴君ディオニス、セリヌンティウス、一体誰なのか、色々な意見が出ていました。
そして、この登場人物達は、実は一人の人間の中にある様々な気持ちだという風な読み解きをしていました。心の中にいるキャラクターたち。
確かに、心の中には、たくさんの自分がいて、いつも葛藤しています。メロスのような、葛藤しながらも、自分の限界まで走るキャラがいるといいのですが、なかなかメロスのようなキャラを明確に育てていくのは大変です。メロスも走ったり、歩いたり、立ち止まったり、休んだりしていましたね。
少し難解なのは、こうした明確なキャラもいるし、闇に隠れている明確ではないキャラもいます。特に日本人の場合、その辺りがおぼろげなのかもしれません。一人の自分自身に統合しておくのは、忖度、本音建前社会の日本では、結構大変なことかもしれません。日本では、個人ではなく場に心がある場合もありますね。他人の中に自分が、自分を共有しているような感じです。場の空気感、風習や習慣。西洋人のようにしっかりした自我を持たない日本人が、他人の気持ちを大切に生きていくのはこうした心理状況から生まれて来るからかもしれませんね。
合理的な発想で割り切れない自分、視覚を超えた世界、言語を超える世界にまで広がっていた、古い心を持った日本人の姿が垣間見られます。その在り方は身体性の中まで広がっています。身体にも、場があり、この場を安定させていくことも10シリーズで行います。安定した身体とは、1つの要素でできてなくて、いくつかの複雑な構成により成り立っています。
さて自分の中には誰がいて、そして人生の主人公は誰ですか?走っていますか?
あなたという本質は言語を超え、どこまでの広がりを持っていますか?身体にその姿がかいま見えて来るときがあります。