大切なものを喪失した人の気持ちがどれだけ分かるのか。常日頃、考えていることの一つです。
例えば東日本大震災、僕の父方の実家は、宮城県石巻市。あの震災で、津波により実家は流されました。小さい頃から何度となく通った思い出のある実家です。従兄弟に手を引かれ何度となく登った羽黒山鳥屋神社。
通りに面した笹蒲鉾屋さん。漁港として栄えていた趣の残る飲屋街。先祖の墓へと向かう日和山。ここからの景色は本当に素晴らしかった。娘が生まれてから行った石ノ森萬画館。松島、そして仙石線ののんびりした風景。そんな石巻の風景が水没していく情景を僕はテレビで見ていました。
その後、実家は別の場所に建て替えられて、行くことのなかった石巻駅。昨年友人に誘われて、石巻で開催されたリボーンフェスティバル。幼き時からのイメージが一気に蘇りました。亡くしてしまった場所。亡くしてしまった魂。亡くしてしまった風景を感じながら、僕は泣いていた。
子供の頃思わなかった。
何かが亡くなるなんて。生まれたものはずっとあると思ってた。記憶の中の風景と変わってしまった風景に出会うことはこれまでもあったけれど、人が動いていた頃の街を知る身としては、復興ですっかり観光地化した姿を見るのは、ちょっと寂しい気がした。喪失感の残骸が街を覆っていました。失ったものを受け止める。その意味を身体で感じながら短い滞在を終えました。
セラピーでもあるロルフィングでも、喪失感を持ったままのクライアントと出会うことがあります。セッションという限られた関係性の中に、どれだけ喪失感と出会えるか分からないけど、身体に刻み込まれた悲しみに、ただ、だた触れるという行為で答える無力感を感じることがあります。その一方で、変化していく生きる力を感じる時があります。それには、まずその事実と向かい合わないといけません。
セラピティックリレーションシップというのをロルファートレーニングでは学びますが、やっぱりアメリカ人の作った基準では合わない部分は、日本人向けに少しアレンジし日本風セラピティックコミュニケーションを続けています。時にそのクライアントの言語コンテクストが開き、急に変容する場合もあるし、またある時は、しばらく手を繋いでいるような、停滞した時間を過ごすこともあります。その流れに僕は注意を向けていきます。
さてリボーンフェスティバルは素晴らしかったです。日本中でリボーン、生まれ変わりたい人、世代を超えて集まっていました。アーティストも、石巻時間を楽しむように、東京とは違う時間で話をしてくれました。東京で供給される情報でない情報に出会う、そんな場であったように思えます。友人が関与しているアート&ミュージックイベントでもあるし、また来年、開催されるそうなので、また訪れたいと思っています。
宇多田ヒカルは、喪失感は私のクリエイティビティの元になっているとインタビューで言ってました。僕もそう思います。喪失感はマイナスの経験だけではありません。生きて行く確かな力となりうる可能性があります。
ここまで書いて思ったのは、僕の場合、寄り添うのではなく、向かい合っていくというのが、セラピストとしてのスタンスのようです。無力感に止まらない場所まで共に歩んでいくことができると思います。人間の再生を力を信じて。