『君の名は』。大ヒットした映画。見に行かれた方も多いでしょう。
一昨日の夜、那須のバンガローで、遅くまで語り合ってた中にもこの映画の話が出ていました。僕は少し眠くなってた時で、話半分に聞いていましたが、
「男女が入れ替わるというのはどうなんだろう。」
「でもあの入れ替わりがなかったら、物語としてつまらなくない?」など映画談義が続いていました。
大昔の日本では、名前は大切なもので、人には明かさないものでした。見知らむ人に名前を明かすというのは、出会う時、それから一戦交える時、だったよう思います。真剣に向かい合う時ですね。
名前を明かすとは、一緒になることでした。昨年出雲で行った島根県立古代出雲歴史博物館で見た古代の再現ドラマでも、恋に落ちた若い2人がいくつかのドラマを経て出会った時、初めてお互いに名前を明かしました。
「僕の名前は**、君の名は?」
「私の名前は**」
そして二人は恋に落ちました。
二人は自分の中で無意識にお互いにとって一番素晴らしいものも交換します。
男女が出会うのは、 日本神話では、まず男から名乗るのがよいとされています。
最近は、女性からきっかけ作らないと出会いも少なそうですが、形上、名乗るのは男性からでしょうかね。
我々の身体の中には、「出会う」という能力が残っているのです。
意識だけだと、互いに牽制しあって出会いません。
意識だけでなく言葉、そして心と身体を伴って出会いましょう。
なぜめぐり逢うのか?いつめぐり逢うのか?
私たちは なにも知らないって、名曲「糸」の歌詞では言ってましたが、僕が答えましょう。
なぜ出会うのか?
それは無意識を共有しているからです。
最近、その能力はあまり使われてない気がしますが、
縄文の血を残す我々日本人は交歓する能力が身体的には高いのだと思います。
共時性が縁を惹きつけていくのです。
おもてなしの国である所以は、この辺りにありそうです。
合理性でないもの。理由のないものへの希求が縁を育みます。
学びよりも気づきの時代と言われ久しいですが
無意識になっている事に気づくこと。
それは、その人の現実感を動かしていきます。
身体を開いて、身体の無意識に出会っていくこと、気づいていくことは、
それは無意識に気が付いていくこと、そして少しづつ出会う力も上がっていくことになります。
僕のクライアントにもたくさん出会いエビデンスがあります。
出会うのは、何も人間、男女に限ったことでもありません。
その人が今、必要な気持ち、必要なこと、必要な情報、たくさんの気づきが起こる時間(とき)です。
潜在していた自分の能力に出会うこともあります。
今、あなたは、何に出会いたいですか?
無意識の中にいる共時性のあなたはどこへ向かっているでしょう。
天の岩戸を開きましょう。
I'm here.
私はここにいます。