さて「映像とアクティビズム」という講座に出てきました。社会学を学んだ僕のテリトリーで、今回は「社会変革とメディアの在り方」についての学びました。
統制気味のメディアの外に出て、リアル情報に触れると体の中で騒ぎ出すものがあります。僕の中にも、変革の魂があるようです。
メディアについて学んできましたので、今日は少し違う視点から僕のセッションを話してみます思えば、僕は人生の前半は制作者として、メディアを作ってきました。メディアは日常的によく使う言葉です。媒体という意味です。媒体というのは、いくつか意味がありますが、
① なかだちをするもの。媒介するもの。
という意味です。それがそれが情報伝達技術が一般化してきて、
② メモリーや磁気ディスクなど、データの記憶するもの。
③ 情報伝達の媒介手段となるもの。新聞・ラジオ・テレビなどのメディア。
までがメディアという言葉の意味です。
なんとなく筋膜に似ていますね。話は脱線しますが、筋膜は中胚葉から発展してきたものの一つです。中胚葉とは細胞が分化して、外胚葉、内胚葉が出来、その両者の間を埋める非常に多様な構造に分化していく部分です。たとえば体腔や循環系、内骨格や筋肉、筋膜、真皮などです。脊椎の元である脊索もここから生まれてきます。
話が脱線しましたが、社会に置けるメディアって筋膜に似ている感じがします。メディアの形は、変化していますが、大きな視点にたつと、本質的な一次的な体験よりも、メディア体験が段々と増えてきた時代。そんな世界を生きてきた気がします。そしてメディアの形は、より現実に近づいてきて、もうしばらくすると、現実のリアリティを超えそうな仮想現実も現れてきています。まさにメディアの中を生き出している我々と言えます。ネット社会が出来、そしてインターネットが生まれ、徐々に統合始めたメディアの中に、脊椎のようなものが生まれてくる近未来を夢想したりします。脊索情報を1つ1つの細胞が開示して、脊椎というビックデータ集積回路が出来る過程のようにも感じます。少し脳内イメージで書くと、情報化社会は、太古の昔に、脊索が脊椎へと変容していく過程を社会という中で追体験しているそんなようにもみえます。身体内で起こった生物の情報体系の発展の歴史を追体験しているような様相です。
さてリアリティの所在は、既に体験という枠を超えていて、視覚体験は現実を超えています。体験、つまり体による験、つまり、証拠を求めて確かめる。結果が形をとってあらわれること。証拠になる事実。は、メディア的なものになりつつあります。「コト消費」と言われるように、新しい体験が主流の商品になりつつあります。
体験を提供するという意味では、僕が提供しているセッションは、ある根源的なコト消費の商品でもあります。メディア化する現実を、身体ベースに戻してみる、そのボディで現実を出会い直してみる。そんな体験です。体は、瞬間的には変わりませんので、手続きが必要で、その為に10回なり、15回なりの段階的なプロセスが必要ということになります。身体は、パーツを変える様には出来てませんので、手続きが必要です。
そしてその手続きは、その方ごとの固有の人生経験や知覚がありますので、その方の人生や知覚に沿って、行っていくことをやっています。それはある方にとっては人生の再確認だし、ある方にとっては人生の修正だし、ある方にとっては人生の反転の時間となります。
基本は、体の構造再構築、機能回復のセッションでありますが、こうした視点で、メディア化した自分の時間を取り戻す、そんな時間であることも、一度書いておきます。メディアに従うのでなく、自分の身体化、メディア化した知覚体系、メディア環境や関係性を感じ取る直感力をつけることにも繋がります。
自己理解、関係性改善、自分の方向性と出会う、そんな自己変革の魂に出会う、身体アクティビズムのセッションとも言えますね。今日は難しい話になりました。でもこんな日があってもよいでしょう、人間は色々な面があります。人間は専用機でなく、汎用機ですから。