人格(パーソナリティ)。人格を元に現実社会は成り立っています。ですから人格が1つであることを前提にした社会や制度そして個人です。現実の中で個人が拡がり、いくつもの役割を引き受けるようになり、窮屈な現実に体が違和感を覚える人が増えています。価値が緩くなった為に、様々な気づきが生まれやすくなっています。
このパーソナリティというのは、色々な意味があります。
1独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。
2すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
3 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。
4 倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
5 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。
かなり矛盾している言葉でもあります。
固有性、人間性、全体性、自律的な主体というニュアンス違うが曖昧にされているので、あまり明確に突き詰めていくと、自分を育ててきた自我は悩んでいきます。個人と組織、家族、社会を考えていくにあたり、この辺りのメンタリティのあり様と、それを投影した現実社会でのあり様との不一致が、自己同一性を求めていく心理的な葛藤として、心や体に影響を与えている、そんな風にも思います。
多様化していく社会に、関係性を悩む個人が増えていくのは、成熟化していく社会として必要な段階だと思いますが、個性の逃避行と、過度な受容による主体性を飲み込むブラックホール的な存在から、いかに救出していくか。身体に乗る意識という聖火リレーをいかに繋げていくか。影と共にたまりに飛び込むのか、或いはこの世界を再構築するのか。俺、或いは、Weへの決着は、一人一人の身体の中で、時空を超えて起こっているのだと思います。
少し余談です。様々なパーソナリティ障害がありますが、これは誰もがある個性の傾向が少し行き過ぎた時に現れる傾向くらいに考えるのがいいように思います。(日本語の人格障害っていう言葉は意味が強過ぎます。)特別病的なものを除き、少し気が付いたことを修正してもいいし、個性として生かしてもいいし、言葉にやられてしまって、孤立してしまう状況も多々ありますが、気づきと表現の喜びの中に、自分を生かしていくのがよいと考えています。ですので「俺」は決していなくならず、「自分」を主体性の役割を担って欲しいと思います。きっとWeが俺の帰還を待っていますよ。
なお、僕がブログで取り上げる話のなかで、一般的な方には少し難解な話も有りますが、全てセッション中に対話で起こった現実のリアルな物語です。ニュースでも情報番組でもなく、映画におけるドキュメンタリーと同じような視点、生音の音楽のような響きと、手を繋ぐ確かな手触りを大切に扱っていきたいと思います。人間の固有性とは本来そういうものですね。
言葉や記憶のせいで葛藤している世界中の「俺」と「We」達の、リソースやサポートになりますように。今世で地球での経験を終え、次は宇宙へ戻る予定の魂の人、そんな人は大歓迎です。身体経験から統合し次のステージへと自分を進めていきましょう。
Cammon!