1992年4月25日早朝、自宅マンションから約500メートル離れた民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見された。
5時45分ごろ、通報で病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが、妻と兄とともに自宅マンションに戻った。しかし、10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。搬送先の病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した。享年26歳。死因は覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) による肺水腫 。これは、尾崎豊の最期の日の様子です。
人間は生に比べて死に関して無頓着です。周りの人間もまさか死ぬとは思わなかった。そんな感じで、死んでしまうことも多々あります。関係性が深い人ほど無意識になっている部分が多いので、事故や突然の死に関しては、驚きを隠せません。実は死んだ本人が一番びっくりしているかも知れません。あれ?俺死んじゃった!って。
一般的な死に関しては、周りの人にしても、急な訃報を聞いても、「エ!この前会った時は元気だったのに。」とか。「ウソ!先月一緒に温泉旅行に行って、卓球一緒にやったのに。」とか。生と死の綱渡り状態の状況でも人は、ニコニコしていたり、一緒に何かをしていたりしています。死のその寸前まで共にいることが出来ます。死は何度か兆候があると思います。少しづつ死んでいくものかも知れません。全てをみることが出来たのならば、なだらかに起こる、そんなものかも知れません。その人の全てが死んでしまう迄は、グラデーションのようでもあります。
そして、概念としてではなくて、身近な人の死という現実の当事者になった時に、現実感を持ってその現実を受け取るのです。当事者でない場合は、そのニュースを情報として聞き、そして通り過ぎていくのです。
身体と心を扱うセッションを提供している身、生と死について考えさせられます。
身体の死。心の死。魂の死。関係の死、存在の死。
生へと向かう方向性、移行空間、あの世、再生。というプロセス。
心身を扱う上で生と死は、とてもリアルです。
この尾崎のレリーフは、サロンから5分ほどの近所にあり、先日、尾崎が好きだというクライアントさんがいたので、セッション後、一緒に出かけてみました。彼女は、ハミングで「I LOVE YOU」を歌ってました。
尾崎の曲だと、僕は「シェリー」が一番好きでしたね。
改めて歌詞をみると精神分析的に興味深い歌詞です。
シェリー、いつになれば俺は辿り着けるだろう
シェリー、どこに行けば俺は這い上がれるだろう
シェリー、俺は歌う、愛すべきもの全てに
さて、
尾崎の倍くらいの時間を生きてきて、世の中の空気はかなり変わりました。
僕はたどり着いたのでしょうか、
這い上がったのでしょうか、
最近はギター弾きながら歌ってはいますけど、どうでしょうねー。
シェリー、
俺はうまく歌えているか、
俺はうまく笑えているか、
俺は・・・
教えてシェリー、今どきは教えて、Siriか、
早速、上記問いかけを、 Siriに聞いてみたところ、それぞれ
「自分が歌うよりもいい音楽を流す方が得意です。」
「Siriは、その俺の情報がわかりません。」
だって。
DJとか、youtuberの方がいいかしらん。
ギター弾き語りバージョンで。