風呂から上がりました。
昔からアイデアは風呂にいる時に浮かぶと言いますね。ギリシャ時代のアルキメデスの言葉で「ユリーカ」(分かった!見つけた!)というのが残っていますが、これは確か風呂の中だったと記憶しています。
さて、
例えば時代劇の価値観。文楽や歌舞伎の時代物、世話物の物語。シェイクスピアや神話の世界まで、これまで作られてきた物語はたくさんあります。でも今ではないこうした物語が一元化し、凡庸になりつつある現実を活性化してくれているのだと思います。
僕は広告業界に長らくいて、物語をたくさん作り出してきました。広告マンとは、ストリーテラーでもありました。それは時に、真実であったり(視点を固定した事実)、フィクションであったり、ノンフィクションであったり、ドキュメンタリーであったり、ファンタジーであったり。広告業界は、虚業の世界でありました。広告は特にですが、映画も、小説も、ドラマも、テレビも、雑誌も、ある程度は同根だったと思うのです。人間の作りもの、つまり全てフェイクだったはず。フェイクとしてフェイクを楽しんでいたはず。
いつからか、情報化の進行と共に、データ的な裏付けを求められ、実質的、当然あるものとなり、虚なりに動かす、或いは動きを期待され、枠の中、役割としてのクリエイティビティとなり、その後はあれよあれよと、現実的なシリアスな数字を追いかけるリピート再生のような現実が仕事を覆った時代もあります。いつの間にか、偽物や悪人は消え去り、正義の味方とヒーローだらけの時代になってしまいました。無駄や必要悪は、排除され続けていきました。
僕の使う言葉も、パラダイムコンセプトもあり、真実もあり、説明もあり、思い込みも、そしてフェイクニュースもあるかも知れません。不確実性の中で、僕らは自分にとって確かなもの、世界の全てを自分にしようとしているのかも知れません。
一人一人の為の自分の身体、自己理解の為の特別な時間。変化の激しい時代だからこそ、何が真実か分からなくなってきた現代だからこそ、自分の身体と心を近づけ、自分でい続けたいと思う人には、とても有益な時間を提供できていると考えております。
自分を感じれるニュートラルな身体へ。