暑くなってきましたね。
汗ばむ季節いかがお過ごしでしょうか。
夏は、白ワインが美味しいです。ごくごく飲みたい時は、炭酸を入れて、スプリッツァーで飲むことが多いです。白ワイン、炭酸をハーフハーフ位で割るのが僕は好きです。あるいは、リモンチェッロを1/3位入れて、炭酸で満たして、名前があるのかどうかわかりませんが、この組み合わせも好きな飲み物です。
さてロルファーになり、ライフスタイルが一変し、お酒を飲む量が減りました。身体が欲するものが少し変わった気がします。飲酒量の変化(と自分では思っていますが)で、健康診断の数値もかなり改善しました。今はナント30代の頃の数字に戻っています。
年代によって、意識するものは少しづつ変わっていきます。身体との関係性に置いても、体力のある頃はほとんど考えなかった健康も、体力が衰えたりすると少し考え始めます。病気になったり、怪我をしたり、生きていれば身体との関係性も色々ありますね。安定した仕事や生活の中、身体の状況を超えて短期間に頑張り過ぎてしまったり、少し長いタームでの老化を無視して、意識はまだまだ若いつもりで頑張り過ぎてしまったり、とかく、自分の健康を過信してバランスを崩すことはよくあることです。
身体からのメッセージが届いていても気がつかない、という状況も多いですね。つまり現代生活ではとかく頑張り過ぎてしまうことが多いのです。命に関わる病気から空けても、また昔の生活に戻ってしまったり。頭の中は変わりませんので、一番良かった頃で、無意識的に自動運転されていたりします。
自分を元気にするもの、活性化するものを外から取り入れて、頑張り続ける、そんな企業戦士のような時期もありました。今はどちらかというと、仕事だけでなくて、フルタイム体制になってしまったスマホやPCなど情報機器的なワーク&ライフスタイルに、身体が悲鳴をあげている場合が多いと言えます。背骨、目、腕、神経、腰部など、弱いところに支障が出始めます。
ホリスティック的には、色々ありますが、まずは自分を活性化していくことを考えていきます。元々ある身体のシステムを改善して健康になっていこうとする試みです。自然になることにより、文明的な歪みを脱しようとする感じです。
我々の身体は120歳まで生きれるデザインをされていると聞きます。医学が発達した現代、なんとなくその方向へ進んでる気もしますが、身体だけでなく精神や心も健康的でないと、人生後半に、病み始めます。バランスを崩してしまいます。
バランスを取ることがいいのが分かっていても、どういう風にやるのかは、人それぞれです。考えているだけでは、なかなかバランスが取れません。また脳は、楽や合理的だけで対応しようとします。違和感を感じた時は、言ってみればチャンスです。違和感があるうちにバランスを取り直し、良くなった部分でリフレッシュされ、また蘇っていく。そんな繰り返しが身体的な人生ではないでしょうか。
リフレッシュの中に、以前とはまた別のあなたらしさを発見できるかもしれません。そうして何度か、生まれ変わりながら生きていくと、いつまでも若々しいあなたでいれるのだと思います。自分らしいリフレッシュを繰り返していくと、自分が活性化し、リフレッシュされる習慣ごと自分の無意識に取り入れていかれます。
邪魔をするのは、過去の自分の習慣、なんてこともありますね。時に自分をフィードバックしていくことが大切です。
ホリスティック的にできることとして、自分に取り入れるものを見直す。ということを、紹介します。
頭はデトックスすることばかり考えがちですが、自分に取り入れる方もチェックしましょう。
1つは呼吸です。ちゃんと呼吸できているか。
2つ目は口から取り入れるもの。水と食事です。
3つ目は、情報です。情報を取り入れすぎると、頭の中は常に飽和してしまいます。何が自分にとっていいのか、分からなくなってしまいます。
この3つの取り入れをチェックするだけでも、かなり健康的になります。自分のポテンシャルを確かめられるような機会って大事だと思います。しかしルーチンに生きているとなかなかその機会がありません。
1に関しては、やはりロルフィングをお薦めしたいです。ロルフィングでは呼吸法ではなくて、自然にしている無意識の呼吸を変えていきます。呼吸筋を緩めて、自然に入ってくる呼吸を最大限に開いていきます。(セッション1)、寝てる間も、4時間している呼吸です。自然な呼吸を手にしましょう。また体を全体的に見ていくことにより、リフレッシュされる方向性を発見できたりします。なかなか対処療法では見えない視点です。意識が知らないこと、気付けなかったことを、身体的は感じているからです。つまり身体性という自分の無意識と出会えるわけです。そして意識化し、知覚が変更されます。
2の水と食事は、さまざまなよいが言われています。考え方が様々ありますね。テレビやネットをみていると情報が多すぎますので、あまり浮気せずに、体の声を聞きながら自分でこれだなと思うものを続けていくのがいいと思います。参考までに僕は水は、アンドリューワイルの勧める蒸留水を飲んでいます。蒸留水は自分で作っています。毎日作るのは大変ですが、家族の健康の為、毎日作ります。食事は、色々ありますが、基本は食べたいものは食べる。という満足型の食生活です。食べすぎない。食べすぎたと思ったらそのあと少し控える。その位で運用しています。前よりは食べる量は減ってきましたね。体が必要とする分食べる。頭や習慣で食べない。なるべく自然のものを食べる。そんな感じですかねー。
3の情報に関してですが、これは仕事や生活で、常に情報にさらされる現代生活では難しいですね。無意識の間に自分に必要のない情報が入って来ます。情報というか情報から遮断することも時に大切です。自然の中とか、幻想的な風景とか、瞑想とかで、情報的なフォーマットで規定されている現代生活の枠から、たまに飛び出して、全体的なものに抱かれることも情報を相対化する意味では大切です。
意識的にスマホやPC、テレビなど情報メディアから離れることも助けになるでしょう。情報メディアとの関係で出来ている自分が、果たして本当の自分なのか。たまにチェックしていないと、無意識的に、さまざまなことをやらされている自分になってしまっていることも多々あります。無意識なので自分では気が付きません。
正確にいうと、情報というか、印象なのだと思います。我々は印象の中に生きていたいのです。量をどうするかというよりは、質的な充足感を求めて無意識は動いていきます。質的な深化を深めていくためには、言葉や表層の雰囲気だけではなくて、深層的な自分の内面を育てて、それと出会わせるという方法論がいいように僕は思います。自分を通過していくのでなく出会っていくこと、身体性の統合は、その1つのアイデアです。量に負けない質的インテグレーションを頭と身体の統合からする感じです。
意識を何に使うか。がその人の人生を大きく変えていくと言えます。特に生活習慣病が、深刻な病の大半になった現代。自分の無意識に気が付いて、自分に必要ないことをすぐに手放して、修正していけるかどうかが、身体状況や心理状況を変えていきます。私たちは、今、何を意識して生活していくのか、意識の使い方、自分の感じ方で変わっていけます。
長編ドキュメンタリー 「うみやまあひだ 〜伊勢神宮の森から響くメッセージ〜」を見てきました。12名だけの自主映画会というスタイルでした。
日本人は、古来、森と海、そしてその間の場所を見つけて、自然に畏敬の念と感謝してきました。昔から、自然、環境との関係性に生き、交渉しながら生きてきました。この関係性が近代化の中で、物理的にも、そして我々の意識の中からも失われ、関係性がなくなってきています。
1300年続いてきた伊勢神宮の式年遷宮の中に自然と調和する形式が残っています。その様子の貴重な映像と、2011年の東日本大震災で失われた山と海との関係性、それを繋ぐものを再生する活動を紹介するドキュメンタリーでした。
間(あいだ)が大事であるということが印象的でした。間を繋ぐのは、川という流れ。こうした自然の循環が生態系を育てているという趣旨。なんだか体も似ているなと思いました。コアとアウター、そして間を繋いでいる水分の多い性質の結合組織・筋膜。我々の体も自然の一部なんだなと思います。
よく考えてみるとロルフィングやクラニオで、我々は人間の体で、水分の多い筋膜組織や体の中を流れる水分の流れをよくしたり、流れをよくして再生しているのだなと改めて思いました。
隠れ鬱と言われる症状が増えている気がします。自分では気がつかないうちにうつ的な傾向に陥っていることをいいます。
隠れうつというのは、一般的な症状として、気分の落ち込み・やる気が出ない・物事が決められない・眠れない・息切れ・体がだるい・疲れやすい・食欲が無い・腰痛・性欲が落ちる・頭痛・胸がドキドキする・胃のもたれ・便秘など症状パターンはさまざま。人によって症状の種類や現れ方、進行はまちまちです。
また自分が鬱になっていることに気がつかないことも多いです。単なる「疲れ」として処理しがちで、 そうなると病状を更に悪化させてしまう事になり兼ねません。
鬱も早めに治療を開始すれば、 それだけ治療効果は高まります。運動したり、自然の中での活動も効果的です。瞑想や人の集いの中にいくのも有効でしょう。こうして自分で進めていく方法と、メンタルクリニックなど病院にいかれる場合があると思います。メンタルクリニックでは、症状を薬で抑えながら、定期的に通い面談を通じて自己理解を深めていきます。
最近は、メンタルの目的でセッション受ける方が増えてきました。ずっとメンタルクリニックなどで、さまざまな治療を行ってきたがいい成果が出てきていない方も、あるいは薬依存を辞めたい方には、ボディワークは、有効だと思います。統合的な見地からホリスティックに自分全体をみていくという手法が改善に繋がるのでしょう。
鬱からの脱却には、3つの症状を抑えていく、身体機能を正常化する、治すということと同時に、対話的な手法での自己理解や自分を展開させていくことが大事だと思います。身体症状が体に出ている場合に、そこだけをどうにかしようとして、マッサージや整体を通われる方も多いかと思いますが、根本的な原因は、身体症状ではない場合も多いです。全体的に自分を捉えなおすという部分が人間の治癒の力を引き出してくるのです。
他の治療も同じだと思いますが、ボディワークでも(精神的なテーマの場合は特に、)プラクティショナーの素性や相性が大事だと言えます。相談やセッションを受ける場合、プラクティショナーの素性や性格をみき分けていくことが大事です。
10シリーズを進める中で対応していきますが、もしご相談含めたトライアルしてみたい方向けに、テツボディワークスでは、有料のカウンセリング+ボディワークというじっくりお話を聞きながら身体からのアプローチを試してみるイントロセッションを設けています。通常のロルフィングとは少し違うやり方で、効果を感じてみたり、治癒計画や立てたりしています。→→こちら
この絵は何に見えますか?
画面奥に顔を向けている若い女性、あるいは横顔を見せている老いた女性の二通りに認知することができるそうですが、僕はなかなか老婆が見えて来ませんでした。皆さんは如何でしょう?
参考までに若い女性しか見えない場合は、耳を目に、アゴを鼻に、ネックレスを口にすると老婆が見えてきます。また老婆しか見えない場合は逆に、目を耳に、鼻をアゴに、口をネックレスとして見ることで、両方が見えるようになります。
若い世代では若い女性を最初に認知する人が多く、年配の世代では老婆を最初に認知する割合が高いそうです。
続いて、こちらは如何でしょう。
うさぎとカモが見えてきますでしょうか?
パラダイムシフトとは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは、劇的に変化することをいいます。
日本ロルフィング協会のサイトが新しくなりましたが、新しいサイトには、ロルフィングによって、パラダイムシフトが起きることがあるという風に書いてありました。
個人が今まで考えていたことが、ロルフィングを受けることにより、時にパラダイムシフトを受けることさえありますということですが、これは本当です。身体が変わると、意識や発想が変わっていくのです。もちろん、全ての方が同じことが起きるわけではないのですが、大きく気づきを与えられる方もいらっしゃいます。見える世界が変わることさえあります。
自然科学におけるパラダイムシフトを掲げてみますと、ケプラーの法則や、万有引力の法則、地動説(コペルニクス&ガリレオ)、大陸移動説(ヴェーゲナー)、相対性理論(アインシュタイン)、量子力学、進化論(ダーウィン)、DNAの二重螺旋構造あたりが、パラダイムシフトですね。また僕が大学の時に学んだソシュールの言語学における恣意的な関係もパラダイムシフトと言われています。
そんなものと、比較していいのか!と言われるかもしれませんが、自分の身体の内側でそれくらい大きな変化が起こる場合もあります。個人にとっての衝撃度では、身体の外の世界の相対性理論や二重螺旋の発見に、決して負けないパラダイムシフトを、身体と意識に起こす場合もあります。言ってみれば知覚のウチとソトとの関係を変えているわけです。
言わば身体が出会う場、自分対宇宙の関係性を変えていることにも繋がります。頭の中での変化、言葉とか貨幣とか、世界観とかとは次元が違います。
しつこいですが、もう1つ出しておきます。こちらは「インデアンとエスキモー」という有名な絵です。2つの絵が見えてくるでしょうか?
自分が今までみていた世界観が、少し違ってみえる時に、そっち側の絵を見たあなたが、その絵をどういう風に感じるか。そうした新しい感じ方をあなたが受け入れるか、どうかは分かりません。
魔法や不思議ということにしていてもいいし、その新しさからみえる世界も含めて、新しい世界にしていってもいいし、また元のパラダイムに戻ってもいいのです。でも一度見てみるということは、あなたの人生で決して無駄にはなりません。
そういう見え方があるということを感じた事実は、あなたの無意識の中に焼き込まれていて、今までと同じようでいて、少し違うあなたが、あなたの今をその後、経験し続けていくのです。出会いというのは時空を超越したものなのです。
セッション7
今回は、顔、鼻、口の中など珍しい場所。
体全体を開くとはまさに全部なんだって気がした。
普段自分でも触ったことのない部分に
、触れられている気がした。
最後に第三の目あたりに先生がふわっと触れた。
眼球の奥の方で数回痙攣のような振動を感じた。
呼吸を整えながらの瞑想のような時間のあとセッションが終わった。
立ち上がると、目に映る世界がキラキラ輝いていた。
先生の目も、壁にあった化粧品も花も全部が光ってた。
びっくりして立ち上がって窓の外を覗くと、街がクリスマスツリーのようにキラキラ光ってた。
私は手を広げてキラキラの中で踊った。
しばし部屋の中を私は踊っていた。
先生は何も言わずその様子を見ていた。
観察している感じではなく目撃しているように。
キラキラのまま帰りますか?
それとも現実に戻りますか?と先生が言った。
今日はこのまま帰ることにした。
帰り道、キラキラした街を歩きながら荒川修作の言葉を思い出していた。
知覚の降り立つ場。
シリーズが終わるまでの間に、荒川の話をしてみよう。
ロルフィング、本当に面白い。
まさかこんな感覚になるなんて思わなかった。
やってよかった。私に合っていた。
※ロルファー注釈
画家であり、共感覚をお持ちのクライアント。しばらく創作から離れていると聞いていたので、何かリソースとなる体験を考えていました。今回のセッションでは、目と鼻と口の関係性に着目しました。
後日談ですが、今回のロルフィングを機に、また描き始めたそうです。良かったです。
一昨年、新聞取るのをやめました。
習慣としてずっと取っていてやめるタイミングがなかったからか、ゴミ出しが面倒になったからか、どちらかは分からないけどやめました。
大学時代の集いがあり、同級生で、日本の新聞を取りまとめている組織の人がいて、我々世代も新聞離れには、頭を悩めると話していたことを思い出した。「新聞をみんな読まないとフェイクニュースを信じる人が多くなると社会が混乱する」というような話をしていました。フェイクニュースという言葉は知っていたが、リアルに感じたことのなかった、会話の中で出てきた言葉にビックリした。そういう風に使うのかと。
ネット社会になってフェイクニュースはビジネスになっていると言います。それだけ新しいニュースを求めている人がいて、ネット依存が進んでいるのか、どこかで情報戦が行われていて情報をたくさん流す必要があるのかどうかわかりませんが、確かに、目先のニュースが入ってくると、一つ前のニュースをすぐに忘れてしまい、情報的に扱われなくなると、なかったことになっているそんな日常を我々は生きているのかも知れません。情報と、いやフェイクニュースと共存している我々。
考えてみると、ニュースにしても、健康情報にしても、一体どこまでが本当で、どこまでがフェイクなのか、わかったものではありません。昨年、とあるい栄養学の博士に会った際もこう言っていた。我々は栄養を食べているのか、情報を食べているのか分からないと。これは身体にいい。と思い込んで食べると身体にいいらしい。
実際に本当のところ、食べ始めて5代くらいしないと栄養が吸収される身体にならないらしい、そろそろトマトが吸収されるようになったかもと、言っていて、ビックリしたのを思い出しました。これは、真実なのか、それともフェイクニュースなのか、。信ずるものは救われるのか。それほど我々は、言葉に弱いようです。
かと言って、何も信じないと、全て疑い、科学的に証明されたものだけで、頭がでっかちになってしまうと、それこそ、身体性とか、生命とかもそのカテゴリーに入ってしまって、生きている感じも、知識以上の生命の不思議や感情が感じなくなってしまって、心身症になってしまう気がしないでもないです。身体の感覚は、本当にたくさんあるので、身体に興味を持って、身体体験と共に生きている方が人間らしいと思います。
あと意外に気が付かないのが、フェイクニュースを発信し続けている自分に気がつきません。自分が口に出していることに、我々は無意識です。必要ない無意識は、気が付いて、解いて、自分の目でみた、感じたことで、自分の意見を発信していくのが良さそうです。フェイクでない心身になって、目の前のことに、自分自身で出会っていきましょう。それが夜明けに繋がります。
先日見た映画「やまうみあひだ」は、4K映像と、ハイパーソニックサウンドと呼ばれ、可聴帯域を超える音で、森や自然を表現していました。特に高周波の音が入っているそうです。
デジタル処理でカットされてしまう部分に人間の脳や皮膚感は反応しているのですね。聞こえない音に人は癒されるようです。音は色々な部分に響きますので、少し頭使いすぎたような時、心身のバランスを崩したような時のリラックス効果高いでしょうね。
音は全体性があり脳に響く情報ですが、身体的には、もし行けるなら、実際に森に行ったりする方が更にいいと思います。音以外の情報も入ってきます。当たり前ですが、温泉、森林浴、などはリセット力高いですね。
高度化された現代社会にあっても、身体は、自然の中を生きているということでしょうかね、人工空間、人工的な環境にだけいると、理由なき、違和感がしてくるのでしょう。
ぼーっとする。意味や言葉からの逸脱。全身。心地よさ。あたりがキーワードだと思います。ただし、ホルモンバランスの変化により、依存性もありますので、委ねるものはちゃんと自分で選択した方がいいと思います。これは嗜好品や刺激性の高いものと同様です。
我々が太古の昔から、ハレとケの文化で、意識的だけでなく無意識的にも、ライフスタイルの中に自分の全体性を自己発展的に調和させてきたのだと思います。現代の都市生活では、無意識に行ってきたことが抜け、意識だけになりがちですので、積極的に意識して、別の時の過ごし方を過ごせるとよいですね。
昼間、井の頭線渋谷駅で、お母さんと子供のツーショットを目撃しました。最近は都心ではあまり見かける機会が少なくなりました。微笑ましい光景です。
渋谷のスクランブル交差点で「授乳フォト」なんていう写真家の方もいらっしゃいました。(→記事)そういうのが表現になってしまうのは、日本ならではなのかも知れません。普通のことを普通として、ただ在りたいだけ。違うものを排除する空気感への社会提示でしょうね。
さて、うつの研究を始めたメラニー・クラインは、のちに児童の分析を熱心に手がけます。クラインはそうしたなかで対象関係論と呼ばれる理論を発展させます。
簡単に紹介します。
一つは,自分の欲求を満たしてくれると満足し,機嫌よくしていますが,少しでもそれが損なわれるとギャーギャー泣き叫び,不満と怒りをぶちまける段階です。お乳がよく出るオッパイは「良いオッパイ」,出ないオッパイは「悪いオッパイ」でしかありません。それが同じ母親の同じオッパイであるということなどは関係なしです。その場その場の欲求を満たしてくれるかどうかが,「良い」「悪い」の基準になります。こうした部分部分で対象と結びつく関係を,クラインは「部分対象関係」と呼びました。
もう一つの段階があります。子どもは母親が一人の独立した存在で,自分の欲求を常にすべて満たしてくれるわけではないことを,少しずつ理解するようになります。さらに成長するにつれて,自分にとって都合のいい「良い母親」も,欲求を満たしてくれない「悪い母親」も,どちらも一個の同じ母親であることがわかり,どちらも受け止めることができるようになります。こうして自分の都合や欲求だけでなく,相手の都合や気持ちにも目がいくようになるのです。良い部分も悪い部分も含めた対象とのトータルな関わり方を,クラインは「全体対象関係」と呼びました。
うつ病など心身疾患の原因に、幼児期にこうした段階をちゃんと経てないことも関係しているということですね。授乳時も、将来の関係性に大きく影響してそうです。こういうのでも出会わなければ通り過ぎていってしまうものですね。
これまで空気感と当たり前という忖度で行われてきたことが問われてます。自己実現と他者理解。受容と違和感。外国人が増えていく中、個人と社会の活性化の為には、日本社会が通り抜けなくてはいけない移行空間なんでしょうね。。。妄想を通り抜けて、鬱を通り抜けていく未来は、きっと明るいのだと僕は思っています。
ブッシュ孝子さんの詩を紹介します。
暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから 空の彼方から
遠い過去から ほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達
暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声
声も出さずに涙する者達の声
詩集『白い木馬』より
施術でなくセッションと呼んでいるのは、対話的な施術であることでもあります。身体との対話、意識との対話、無意識との対話が、ロルファーとクライアントの間ではなされます。
身体的な対話ってどんなものかは、体験してもらわないと分かりにくいのですが、言語下で動いている無意識の自分のシステムや動きに気がつけるメリットはかなり高いと僕は思います。スポーツをされている方はもちろん、一般の方でも、さまざまな自分のポテンシャルの発見を伴います。
精神医療の世界でも対話が大切であることはよく語られることです。さらにフィンランドスタイルのオーブンダイアローグが心身疾患に効果的な手法であることは、筑波大学の斎藤倫教授などにより紹介されています。
会話は出来るが、対話が出来ない人は日本には沢山いて、近年増えています。対話力の欠如に気がつかない、或いは放置されても日本では許容されがちです。
近年の情報環境も加わり、対話なき社会に違和感を感じつつも、在り方がわからない。そんなかたにもこのセッションはお薦め出来ると思います。
身体、意識を繋ぐもの。身体による自分発見、自己統合、は、身体性に生きてきた忖度カルチャーの日本には意義の高い体験になると思っています。
友人と話してて、古今和歌集の話になりました。表現メディアが和歌しかない時代に我々の想念や意識がどうなっていたのか、想いを馳せてみました。現代生活ではメディアが多すぎて、一次情報が少なくなってしまった!
言葉。
ハイコンテクスト言語である日本語、さそかし暴れたことでしょう。陰陽師が活躍していいた時代、今よりずっと奇異体験も多かったでしょう。文献からしか垣間見れませんが、言霊に乗って、怨霊やモノは、無意識の中を生きもののように飛び交っていたかもしれません。
思えばおばあちゃんと百人一首よくやりました。おばあちゃんちは、当時、寮?みたいなことをやっていてて、大手企業の寮は、二棟ある大規模なもので、子供時代の僕には、壮大な遊び場でした。当時の寮は、今時に言えばシェアハウスのような場所で、おばあちゃんの周りにはいつも人がいました。百人一首はそんな時代によくやりました。子供なので、もっぱら坊主めくりでしたけどね。
意味は知らずでしたが、覚えているのは、姫よりも坊主さん。人間の記憶というのは、嬉しいよりも、ショックの記憶の方が強いんですかね。一つ紹介します。
今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな 素性法師
作者本人は男性であり僧でしたが、女性の立場に立って詠われたものです。「あなたが来るというので、待ち続けていたら9月の月になってしまった。」と心境の歌だと言われています。ずっと待っていた!この歌を読まれた相手は、さぞかし慌てたことでしょう。陰陽師に相談が行ってたかもしれません。
9月はハーベスト、収穫の時です。夏の間、夢見て過ごしていた人も我に帰ります。現実的にも動き始めます。夏休みをおばあちゃんちで過ごした僕も、実生活に戻りました。9月はおばあちゃんの誕生日でもありました。
立秋は今年は8月7日です。季節感がめちゃくちゃですが秋に向けて動き始めます。
ですが・・・それにしても暑いですねー、南半球に飛んで行きたい気分です。
夏は暑すぎてボーッとしてしまい判断を誤まることありそうですが、分かっていてもつい、動いてしまいがちですね、私たち。
ボディリーディングをメニューに加え、ロルフィングを知らない人たちが、多数、姿勢をテーマに来店されました。姿勢に関してどんなことを考えているのか、すごく参考になりました。
姿勢が悪いって言われて、ずっと気になっていました。という人が多かったですが、ではいい姿勢ってどんな姿勢だと思いますか?と問うと、口を濁す人が多いです。姿勢がいいとは思ってないけど、いい姿勢というのが分からない。そんな人が多いということです。
つまり、いい姿勢か悪い姿勢かで無意識的に悩んでいる。そんな人が多かった気がします。
姿勢を良くするアイデアを少しづつ伝えていくと、徐々に姿勢改善していく様子があり、驚く人もいるし、ふーんと興味なさそうな方もいます。自分の姿勢には興味があるが、姿勢が良くなっても、それを感じ取れないと、やっぱり戻っていってしまう。
自分が良くなったり、変わることに対する心のポジションというのはある程度は、効果に影響する。元々クールな人というのは確かにいると思います。でも感情も含めて、喜びとして受け取れると、体はどんどん変わっていけるような気もします。自分を全部使っていくこと。ワーク&ライフバランスということが良く言われますが、形としてのバランスというよりは、自分側から見たボディ&メンタルバランスも大事だということです。
その辺りは通常のロルフィングのセッションで実現していきます。セッションではないので、施術をしないので仕方ない点もありますね。今回のボディリーディングはお試しメニューであるのでその辺りはご容赦ください。
でも色々な要素、(知覚やコーディネーション、筋膜、視覚)が組み合わさり、体は変わっていけることは、参加された方は分かっていただけたと思います。その意識でセッションに望めば、楽で、自由な身体は必ず得られるものだと思います。
体だけ、心だけのように、何々だけという発想は、本来は人間にはありません。自分を全部連れて、楽で、自由な身体にシフトしていって欲しいと思います。そんな画期的なプログラムが10シリーズということになります。
セッション9
上半身の統合。
ボディリーディングで歩いているときに、先生が聞いた。
肩はどこにありますか?
両肩を触って示すと、
今日は肩を無くしますね。と言う。本当かい?
ベッドから下に手をだらーんと下げて、腕の筋肉を触っていく。何してんだろ、くらいの触れ方、痛くもかゆくもない。
立ち上がったら、不思議、本当に肩がなくなっていた!
肩が腕という機能的な流れの中に入ったから、肩が自己主張する必要が無くなっただけだって。
なんなの!おもしろーい。 肩こりもなくなるの?
「プッシュとリーチ」というトレーニングを行う。
先生と手を合わせて向かい合い、動きの前のうごき?と実際のうごきをシンクロさせる。
太極拳のようなうごき。時間がゆっくり。
※ロルファー注釈
肩甲体の機能的回復を目指し、コーディネーションと、プレムーブメントからムーブメントへというボディワークを中心に行いました。動くということの身体的理解をテーマに、主体性、受容性の双方向性をテーマとしました。ここまでのセッションで解放してきたものを編み込んでいくように、繋いていく。目で見えないもの、構造でないものを、動きで感じて自分の空間に閉じていく作業です。
彫刻で有名なイサム・ノグチですが、その原点には制作の根本につねに身体性への問いかけがありました。20代のドローイング作品には、毛筆と墨による身体素描の大作「北京ドローイング」が残されています。
そして舞台芸術を手がけ、身体の動きと空間の関係を結びつけ、この後に、多彩な彫刻作品へと発展していくのです。その後も出会いとコラボレーションで深めた「総合」への眼差しを持ちながら、独自の世界観と、ランドスケープや自然との交歓へと展開していくのでした。
イサム・ノグチ展観てきました。素晴らしい人生の展開図・ビッグマップをみせて貰った感じです。なんとバックミンスターフラーとも親友だったそうです!
イサム・ノグチ─ 彫刻から身体・庭へ ─
Isamu Noguchi: from sculpture to body and garden
東京オペラシティ アートギャラリーにて 9月24日までやってます。
高松空港のモニュメント TIME AND SPACE
暑い日が続いています。
涼しいところ、今日は原宿にあります浮世絵の美術館、太田記念美術館、「江戸の悪 PARTⅡ」展へ行ってきました。紹介します。
現在、連動開催の都内数カ所で「悪」に関するやっております。僕は今回行って4つ目クリアです。
200年ほど前の江戸の「いい、悪い」価値観が今とは全く違うのに驚きます。江戸時代は、悪人は、アンチヒーローで、カッコいい感じだったのでしょうね。石川五右衛門、因果小僧六之助、盗賊や小悪党が人気を呼びました。当時の人たちは現実、虚構を問わず、「悪」の持つ魅力に好奇心を抱き、時に酔いしれたのです。それにしても、殺し合い、血が飛び交い、悪女、伊達、敵討ち、怨念、悲恋、この世とあの世の狭間で繰り広げられる命がけの幻術や幽霊の攻防に、手に汗握ったことでしょう。みんなワクワクドキドキしていたいのです。
悪というのは、日本では、古来からの意味でいうと、従わざるもの。あながうもの。反体制派みたいな感じです。日本神話の中をみても、スサノオでさえ、今風に言えば、暴れ者の悪人、アンチヒーローでしょうね。悪を排除し過ぎると世の中は、安全安定かも知れませんが、面白みにかけた、変化のない、住みづらいものになっていくのでしょう。
価値多様化時代、完全に正解がなくなって、在り方が問われている時代です。他の価値観を排除するのではなく、出会いって統合していくような在り方が社会に求められているような気がします。
自分の中で「いい、悪い」を強くお持ちの方、自分の中の考え方、信念を中庸化するのにいい機会だと思いますので、お薦めしたいと思います。
暑いですから、怒りっぽい人が増えています。
新しく出会う人とは穏かに、笑顔でいきましょう!
さて英語で歌ってちょっと濁していますが、セカオワの「ANTI-HERO」も世の中にいいしか無くなっていく。いいもの以外排除していくみたいな少し息苦しい世の中に対するその辺りの現代風刺の曲でした。この世にあるものは全て必要なもの。いい悪いの外で、自分を感じていくことの大切さを、考えさせられる曲でした。
英語だったのでわかりにくいので今日は日本語で紹介します。
ボディワーカーなので身体に関しても少し触れておきます。姿勢に関してもそうなんですが、あまりこれがいい姿勢!これが悪い姿勢!という2つしかないわけではないです。我々の身体は、そんな単純ではなく、多元的な存在です。多元的な身体を取り戻して貰うべく、ロルフィングでは、ニュートラルを感じて貰って、自分らしい、力の抜けた楽な姿勢を自分で感じて貰う感じですね。自分らしく、自分らしさへの戻る、これが基本です。
「ANTI-HERO」
僕は正義なんかなる気はないな
人の期待にも答える気はないな
みんながハッピーな世の中など
出来るようには出来ていないから
国が決めた法律など
僕の前じゃ、ゴミ屑みてぇなもんさ
僕には守らなきゃいけない奴がいる
邪魔する奴は容赦しない
俺が決めたことをすべて正当化するのはもう飽きた
そばにいる人を救うためなら
なんでもするって、わかった方がいいぞ
「ちゃんと列に並ぶ」「目立つことをしない」
ヒーローたちは何が正しいのか言ってくるけど
いざとなれば、僕の決意がわかるはず
いつだって戦う準備ができてる
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
お前を守るとき手段なんか選びたくないから
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
俺は正義なんか大嫌いだ
何の役にも立ちはしないだろう
そしてみんなはルールさえ守れば
大丈夫だと勘違いしてしまう
どういう風にみられるかどうか気にしたくない
君を自由にするためなら
みんなに愛されなくていいんだ
bum bum bum 俺がやってくる
bum bum bum 逃げた方がいいぞ
bum bum bum 俺がやってくるから
逃げろ!
「ちゃんと列に並ぶ」「目立つことをしない」
ヒーローたちは何が正しいのか言ってくるけど
いざとなれば、僕の決意がわかるはず
いつだって戦う準備ができてる
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
お前を守るとき手段なんか選びたくないから
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
お前を守るとき手段なんか選びたくないから
オレは悪でいたいのさ
みんなに嫌われ恐怖されていたいのさ
俺は悪でいたいのさ
昨日書いたジャンプの話を続けます。
ジャンプと言えば、どうしてもこの曲のイントロが耳に届いてしまいます。ヴァンヘイレンの「ジャンプ」です。80年代の名曲ですが、僕にとって思い出深いこの曲。
その昔代理店時代にパイオニアLDC(現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)のプロモーションを手伝っていたのですが、当時、六本木にできたステージ付きの洋楽カラオケ専門店の取材を、音楽専門誌「ミュージックライフ」から、請け負って、この店を取材した際、最初にかかったのがこの曲でした。
80年代の曲は、今聞くと少し頑張りすぎな気がします。ちょっと眩しすぎます。例えば「ジャンプ」もこちらのアズティックカメラの歌うバージョンの方が、今聞くと、しっくり来るような気がします。どうでしょう?
人々が熱い時代は過ぎ去り、力の抜けた自然体の時代へと、世相が、世の中が変わったのはいつからでしょうか。失われた20年を経過するうちに、ゆっくりと世相や世の中は、落ち着いたものににっていったのでしょうか。
或いは、ゲームやパソコン、ケータイ、スマホという情報ツール、また大人も経済やネットを通じた投資が一般的になるに当たって、現実世界よりもバーチャル世界の方に生きる人が増えたあたりでしょうか。何れにしても現実世界に生きている人が一気に減ってきた気がする2000年代以降です。今は、JUMPと言えば、Hey Say JUMPが普通ですかね。。。(^ ^)
関係性が難しい時代だと言われています。なぜ難しくなったのか?それを理解することは難しいですが、体感的は感じている人は多い気がします。でもどう説明していいのか分からない。どうしていけばいいのか分からない。そんなことも多いかと思います。
言語化や行動化、をしていければいいけど、それが難しい。頭で考えていても、ネットで調べても分からない。自分でもどれが自分に向いているのか分からない。分からないので、自分の中で葛藤している。自分の分かるもの、好きなものとだけ接し、安心する、安定する。
考えても分からない。分からないことから逃れたい。或いは動かずにじっとしていたい。ノズタルジーに浸りたい。そんな意識状態だと、少しづつ違和感が増してきます。
それは、部分的な発想、部分的な思考、部分的な動き、部分的な視点から始まるズレなのだけど、ズレすぎると、歪みすぎると、そのことすら気がつかないことも多いでしょう。一時的な解消でなく、ズレや歪みの根本から向かい合う時に、こんなに楽だった。こんなに自由だった。と気がつくのだと思います。それがニュートラルということです。まず呼吸から。まず身体からニュートラルになる為に、身体の声、体感を取り戻していくこと。身体から感じ取る新しい気づきと自己理解を始めて見ませんか?
新しい学びは、気づきの中にあります。
自分との関係性。身体との関係性、世界との関係性。
こんにちは。
NHK「100分で名著」今月は河合隼雄スペシャルです。河合隼雄といえば日本に置けるユング心理学の第一人者です。
ユングといえば、心の最も深い層にあるとされる「普遍的無意識」に注目しました。それは人類に共通する基層ともいうべきもので、そこには「元型」と呼ばれる基本的な型のようなものがあるとしました。
元型で代表的なものとして「影」「アニマ」「アニムス」「ペルソナ」「太母」といったイメージが、今の自分の心の状態を映し出すように生まれてくるとしました。そこに表現された不均衡こそが「心の病」をもたらすとしました。そして主に夢の中に現れるこれらイメージをどのようにうまく統合し、自己を実現していくか?など研究してきました。
こうした元型同士の葛藤や、不活性な拮抗がブロックを作ったり、うつ状態が長期化すると病いと言えるでしょう。身体統合が進んでいくと、セッション中に、ブロックに気が付いたり、自己矛盾に気が付いたり、記憶と一緒に葛藤の原因があったり、トラウマが表出してきたり。なかなか自分だけでは気が付けないことも多いです。身体には、言語にならないイメージや印象、身体化した感情も表現されていることがあり、全体性の中で統合させていける可能性があります。欲張らず小出しに少しづつ進めていくのが治癒の最短距離だと思います。
河合隼雄も言ってますが、西洋で生まれたユング心理学では、日本人のメンタリティは全て扱えないと言います。彼は、「ユング心理学と仏教」の中で、日本における「私」のあり方。西欧とは異なり、日本での「私」は、自他が浸透し合った流動的な存在なのであると言います。「私とは何か?」という人間にとって最も根源的な問いに仏教と臨床心理学の双方から新たな光を当てるとともに、「人間は他者とどう関わっていけばよいのか」「苦しみや悩みを乗り越えて再生していく力とは何か」説いています。
近年、精神的な病は、増えていると思います。精神的な問題で、ロルフィングを受ける方もいらっしゃいます。やはり身体は心の入れものといえますので、体を統合していくとある程度心も統合されていくものです。葛藤が消え、考え方がまとまる、自分に気づくことは、かなり健康に近づいていくことでしょうね。
ロルフィングも西洋で生まれたものですので、コンテクストが多少とっつきにくいものもあり、僕もロルフィングの文脈にない日本的な身体文脈を少し取り入れている面もあります。特にセッションにメンタルテーマの時は、ボディワークと対話的手法、マインドフルネス瞑想や心理学的な手法など活用しながらセッションを進めています。 日本の場合はペルソナが人間関係と無意識で結びついていることが多く、ペルソナの危機から身体、精神バランスを病むことが多いかも知れません。
セッション10
最後のセッション。
オーソドックスに確認しながら体を動かすワークを色々とやってもらう。
前半は座って背骨を丸めていくワーク。
どうしても胸のあたりで飛んでしまって、(つながりが)首や頭が先に上がってしまう。
ベッドに寝て、繋がりを感じながら、胸のつまっているところを、混線しているところを、ゆるめているうちに、なんかイメージなのかビジョンを見えてきた。
小さい岩の中にいる竜?、
真っ黒い小さい竜みたいなが、胸からうきあがり、体から外に出ていった。。。
顔も見えた。
どういうこと??!!
もう一度座って背骨を丸めるワークをすると今度はちゃんとできた。
胸に何がつまっていたんだ、いったい。そんなことがあるんだ。
最終回ということで、終わったあと、お茶を飲みながらいろいろお話する。
荒川修作の話、そして黒い竜の話もした。
そんなこともあるのですね、
先生は特に驚く様子もなく、聞いていた。
10シリーズが終わった。
清々しい気持ちでいっぱい。
ドラマチックでセンセーショナルな時間だった。
そっか、今回のシリーズは、終わってしまうんだな。
終わること意識してなかった。楽しかったな。
魔法のような不思議なセッション楽しかったな。
またいつか、受けたい。
※ロルファー注釈
多感なクライアントならば、身体から学べること、気づけることは沢山あります。身体は無意識に繋がります。日本語はハイコンテクスト言語なので日本人の心象世界は、アボリジニのいうドリームタイムみたいな時間の止まった世界、空間が無限に広がる世界に繋がっている場合もあります。ドリームランドでの統合は、やがて現実世界に映し出され統合を生む場合が多いです。アーティストである彼女にとって、その創造力の世界は、現実世界を凌駕します。世界とはその人ごとの心の世界とも言えます。竜は、それまで暫く彼女を守り支えてきた心象世界のアトラクターの一つでしょう。姿は僕にも見えました。出ていった胸には三角形の穴が空いていました。その穴にHANDS ONし、その穴を塞ぎました。
お茶を飲みながら、竜が出ていった部分には穴が空いていて三角形だったこと、心の傷は三角形である事が多いこと、そしてその穴は僕が薄いベールで塞いだこと、しばらくするとその部分はかさぶたになりやがて自分のものになるけど、暫くは胸、ハートを大事にして過ごした方がいいこと、を伝えました。最後に「パフ・魔法の竜」の歌を二人で歌い、全11回のこのシリーズを閉じることにしました。
心で起こった統合は信念体系と重なり、やがて現実世界を変えていくことになると言われています。彼女はこれから子供の頃に感じた家族と過ごした心象世界を取り戻していくのでしょうか。何年かして、その後の展開を聞けることを楽しみに待っています。さてセッションでは自分が思う以上に多くの変化が起こっています。受けとめる時間も必要です。今日はクロージャー。祝福を持って彼女を見送りたいと思います。またいつの日か出会う日まで。
自動運転車が話題になっていますが、車の前に、自分が自動運転になっていないか、一度チェックしてみると、実にいろいろな自分のことが見えてます。
我々の体自体、自動運転のデフォルトモードがありますし、脳にもDMN(デフォルトモードネットワーク)というシステムがありますので、自動運転は普通のことです。しかし違和感や不快感を感じてまで、自動運転に従っていることもないので、自分で感じて、考えて、自己修正していけばいいのです。自分のルールはいつでも変えられるのです。
自分で自分を止められるか。当たり前のようですが自分を止められない人も世の中には多いです。色々と理由はあります。会社の事情、人間関係、生活の事情、欲望などさまざまな理由はあるが、やはり自分のハンドルとブレーキはある程度自分で握れていた方がいいと思います。自動運転になっている自分に気がついてないことだって多々あります。
自動運転でも別に悪いわけではないです。いいとか悪いとかでもないし、自分で選んでいればいいわけです。行き先もお任せでもいいし、ノリに任せたって良いと思います。返ってメリットを考えて選んで行くよりも、ノリや直感に従って選んだ方が後から考えるといい場合だってあります。直観力は時に判断力を上回ります。
直観力だけで生きてきたという人も僕は何人か知っていますし、その方が幸せだったり、うまく行っている場合も多いです。判断するというのは、選択を限定してしまいまます。身体的な直感、虫の知らせ、雰囲気や気配が、自分を導いてくれることの方が、本質的なこともありますね。メリットとは違う文脈の人生のあり方です。
自分で決めた時は自己責任ですね。他人のせいにせず、自分に起きたことは自分で責任をとる。そういう生き方ができていた方が、現実に集中していくのだと思います。メリットというつながりでない、人生の始まりです。新しい文脈の扉が開きます。10シリーズを行う時も、なるべくそういう扉が開くようなセッションに臨んでおります。
ボディワーク的にみると身体は無意識の自動運転が多いです。もともと人間に備わったものもあるし、それから生まれてから自分で身につけてきたものもあります。身体化されていると自動運転になりがちです。
自動運転されていると、全て自分のように感じますが、自分のためになってない自動運転もありますね。体には動きのクセ、ボディスキーマとして、自分に内在して自分としてしまっています。体の場合、動きの場合は、区別化、統合という手法を使って、新しい自動運転にするように、再構築しています。
こんばんは。台風一過、また暑さが戻ってきました。体調を崩さず元気にお過ごしでしょうか。
さて、ロルフィングは、とかく筋膜を語る文脈が多いですが、全身を扱いますので、骨も当然扱います。
顎関節とか、肩甲骨や鎖骨のポジションとか、肋骨の開き具合とか、膝の水平とか、仙骨とか、骨のポジションや状態をチェックしたり、整えたり、正しい位置に促したり、骨をベースに整えていくことも多いです。
さらに鼻の曲がりとか背骨のS字カーブとか、美的なアプローチや美しいラインなんかも見ていきます。見た目どうのこうの、という発想ではなくて、ニュートラルな健康的な身体という視点から扱っていきます。健康的に、というのが一番美しいと思います。
顔が少し疲れてきているとか、表情のくっきり感が無くなってきた人なんかも、顔を骨ベースに整えていくと、深層の筋膜や構造体が緩み、健康的で、くっきりした顔が蘇ってきます。ですので、僕から見ると「この人の骨格はどういう感じかな」と、触れながら感じ、写真のように見立てながら顔を触れている時もあります。
顔や頭は、自分ではなかなか、緩めたり、リセット出来ない箇所です。なので、変化の幅も大きいです。また顎関節は、内臓まで繋がっていますので、顎関節のリリースは内臓の調子にも影響がありますね。体は繋がっているのです。
骨は NHKスペシャルでもやってましたが(→参照)活性化、若さを引き出すそうですので、骨へのワークは、可能性が多いと思います。運動する方は活性化、運動しない人は老化防止にもお薦めです。
こんにちは。
男の子なら一度くらいはそんなことを思うと思いますが、最近はそうでもないのかも知れません。
就職して社会に出て、何度か弾き戻される。そして、逃れるよに海外に行ったり、あるいは部屋に篭って、わけわかなないことを考えたり、妄想したり、先日当時書きなぐったノートが出てきたり、20代の僕は、さぞかし扱いにくい人間だったと思ったり。親はさぞかし心配していたでしょう。
最初の会社に入り、耐えきれなくなって、オーストラリアのワーキングホリデーに出かけました。旅の終わりにユララによって、エアーズロックを3日くらい見ていました。何もない大地に、エアーズロックと遠くにマウントオルガが見える場所があって、そこで。
「何かでっかい事してやろう。」 そんな妄想をしていた気がします。
心身症のようになって旅に出て、色々な人に出会い、色々な場所で妄想と空想し、リフレッシュして帰ってきて、また会社に戻り働いて、また苦しくなってきて。この非効率なサイクルをずっと続けるのかと、よく考えたものです。このまま旅人のように生きていこうとか、何度も考えたりしながら、それでも日本に戻ってきてしまったわけですが、結局日本に帰ってきたのは、その当時のことを考えてみると、あの頃自分を導いていたのは、その時その時の身近な人との関係性だった気もします。関係性の構築、今でも大事な気がしています。
今のネット環境がある時代だったらまた違う選択をしたかも知れませんね。