こんにちは。オリンピックボランティアのオリエンテーション&面接に行ってきました。立場や国籍の違う方たちとの新しい連携、関わり合いがまた一つ始まりました。近隣、企業、趣味というコミュニティでない、新しい共有体験の場として楽しみにしています。
オリエンテーション会場は、国際色豊かで、熱気に包まれていました。新しい都市生活の場ではボランタリティに支えられた市民社会の他者理解と共生の場が指し示されていました。アトラクションもあり、オリンピックインフォメーションもあり、なかなか工夫されていました。同じテーブルで話したメンバーもそれぞれ違う立場や境遇で、多様性社会の一端を垣間見れました。
色々と言われている部分もありますが、楽しんだもの勝ち、テレビの前で観ているだけでなく、関わりの臨場感を楽しみたいと思います。我が家は、全員でエントリーしました。オリンピックが終わるまで、それぞれが違う立場でのオリンピックへの関わり、2020年の家族共有体験として参加しています。
体の変化と一緒に、心(メンタル面)の変化も同時進行していたように思います。生きていることに対して素直に喜びを実感できる毎日に変わりました。
これは周りに波及するものなのでしょうか。教諭という職業柄、生徒とはバリアを自ら作っていましたが、気づくとそのバリアを破って質問や要望を訴える生徒がロルフィングを始めて増え、自然に接している自分もいる、そういう日常生活があります。自分がどう思われているか、よりも自分はどうありたいのか、自分と本気で向き合う機会を与えられた気がします。答えはまだ出ていません。これからゆっくり探求していきたいと思っています。(→全文)
(ロルファーコメント)
ロルフィングはボディワークですが、体の変化が、心に影響することも多く、ここ数年は、心理学やカウンセリングの勉強をしてきました。ボディワークでも心理的なものを扱うワークもあるのですが、メンタルのテーマが出てきた時の対処としての幅の広さを考慮しボディワーク以外の知識を主に学んできました。自然体は自然な心を作り出します。自然とは、人間にとってみれば、意識が意識と無意識の融合、そして対話です。考えているだけ、論理的だけで割り切れないない無意識に意識に出会わせていくこと。自分を全て受け入れること。恐怖を乗り越えて自分自身になっていくこと。僕のセッションは、自然に、自分らしく生きていくことにも繋がるボディワークに仕上がってきた気がしています。
この時のシリーズは、雨の中を一緒に歩いたようなシリーズだった気がします。違和感があるほとんどのことは、無意識下の不安・恐怖心が行う対処が過剰を作り出して築いていきます。たまには雨に濡れてみましょう。プロフィールにも書きましたが、タップダンスもちょっとやったことあるんです。ステージに立った証拠のビデオも探せばどこかにあるはずです、笑。
こんにちは。サロンの金魚が、裏返しになっていたりして弱っていたけど、最近暖かくなりどうにか大丈夫そうな感じになりホッとしています。そういえば昨年までは家でも金魚飼っていたのです。様子を観にいこうということで、恵比寿の街をぷらぷら出かけ、ZOO恵比寿へ。これ!というのが見つからず。
ここは、ちょっとした動物園的なお店で、お魚だけでなく、鳥も爬虫類も、さらには、カピパラ、ミーアキャット、ミニチュアホース、ヤギ、フクロウ、ハリネズミなんていうのもいます。ロルファーだからかもしれませんが(大きいやつは特にですが、)明らかに意思疎通できますね。
皆、人懐こいです。以前南平台のZOOサロンが会社の側だったので、たまに顔を出していたけど、小学生の溜まり場でした。南平台は、フクロウとかオウムとか、あと犬ちゃんがたくさんいます。テレビでお馴染みの犬もちらほら。
気がつけば今日は3月11日なんですね、8年前の地震を思い出します。この動物に囲まれた状態で、今地震があったら大変だと内心思いながら、でも地震があるのなら、動物たちは既に感じているはず。落ち着いた動物たちを眺めながら安心していました。また出直します。たい焼き買って帰ります。
こんにちは。東日本大震災のあった3月11日を一緒に過ごした方から、「あの時は大変だったね!」というメールを頂きました。もう8年立つのですね。あの時、あなたはどこにいて、何をしていましたか?そして何を感じましたか?
あの大震災から色々なことが変わった気がします。僕はちょうどロルファートレーニングの最中で、あの地震によりトレーニングは中断してしまいました。紆余曲折の中、講師やスタッフの努力もあり、2011年年末に無事にロルファー資格を取得出来た訳ですが、あの最中には一体どうやって収束していくのか、日々不安を抱えながらの毎日だったのを覚えています。
吉田さんは、災害時に強いよねとよく言われまます。(多分、動物的な判断で、現実対処力があるという意味だったと思いますが)30代以降は、サラリーマンでなく生きてきたので、動きや行動力に関して、直感的に動くことに長けていた部分はあったと思います。色々な人にそんな話をよく聞くので野生的な人だったのでしょう、笑。(無意識なので本人的にはよく分かりません。)
あれから8年時間は経過し、僕も50代に入っています。我々の身体は生きていますから、少しづつ変化しています。前と同じように動けるわけではなく、その時に一番必要なことを、いかに選択できるかが大事になってきます。人生に対する盲点は、以前より広がっているかも知れません。また南海トラフが噂されていますが、今の自らの身体の声を聞きながら、自分の今を日々是好日に生きていきたいと思います。
こんにちは、今日はこれからギターの練習です。
11月に実家の倉庫から取り出して始めたアコースティックギター。その後、講座から紆余曲折もなく、すんなりとコミュニティ活動になり、月二回のゆるサークル化が出来ました。さてどういう発展になる事やら分かりませんが、定例会になったことは素晴らしいなと思っています。
僕が今回のサークルで一番いいなと思うっているのは、30代ー70代という幅の広い構成であることです。世代が違うと考え方や発想が違うのが常ですが、そうした違いを超えて1つのことを進めていくこと。その前提が出来たことを嬉しく思っています。既に色々なことを学ばせていただいたり、気づかせて頂いています。そのうちご披露出来る機会もあると思います、笑。
考えてみればこれまでも何回かサークル立ち上げをしてきたなと思います。テニスサークル、サルササークル、山歩き、高い所に登る?とか、渋い所では詩吟!、あと温泉とかね。自分史を辿ると、学生時代に始まり10位は立ち上げていて、こういうのは得意な技能の1つのようです。今時は場作りとか、コミュニティ活動とか言われますが、そんな言葉がない頃からやってたんだなと改めて思いました。思えば起業した会社も最初はフリーランサーたちのサークルみたいなもんだった気もします。
それでは行ってきます!
映画出来ました!今回はセルフドキュメンテーション、自分の人生の再生と変容の物語です。
自分をコンテンツとして、再構築していく自らの物語を作品化してみました。普段はセッションで扱っているテーマの1つでもありますが、今回は、映画表現で。素材として自分も出て、コンテンツとして自分を使いました。 ロルファーになってから僕と出会った方なら、楽しんで頂けると思います(^^)v
コンテンツ的には、昨年19才になった娘の誕生や成長、父や母との関係、その度にリズムを変えてきた僕の人生が描かれている創作です。ドキュメンタリーって創作なんですか?って思うかもしれませんが、映画でドキュメンタリー論というのがあり、それを学ぶ時に、主体者の視点から見た真実を扱うのがドキュメンタリーであると学びました。
つまり、
「事実」とは人の意見の介在しない客観的に見た事象そのものを指します。
「真実」とは人それぞれにある主観や考えに基づいた結論や考えを指します。
この2つは違うものであるということを、自分のコンテンツとしてどこかで知る時がくると思うのです。
言葉と実態は違うということで人生には真実の物語の再構築が必要な時があるのです。
これはトラウマや思い込み、ブロックなどにも関係しています。
本当は1時間半くらいにしたいところですが、映画というフォーマット、それから評論家や映画製作者の講評を経て紆余曲折の末、カットされまとめ上げた30分の作品です。
自分の過去を見れば、これまでWEBとか雑誌とか作ってきたわけですが、映画となると、作品なわけで、クライアントの意向もなく自己表現ですので、まず何をテーマにするかあたりから悩み出し、ダンスや風景など撮ってみましたが、卒制にあたり、そういえば整理されずに残っていたホームビデオが大量にあるなと、それを元にした映画的にいうとファウンドフッテージ的、試写を見た友人によるとロマンチックな(?)セルフドキュメンテーションです。自分の過去に感情移入しすぎ編集作業は難航しましたが、自分に節目を付ける意味でも完成しようと思い、夜な夜な取り組んできました。1つの作品として、そしてアウェアネスコース、Rebornシリーズのサンプルとして、お楽しみ下さい(^^)v
さて映画館でも上映します。
明日から、渋谷のイメージフォーラムシネマテークにて。(割引券下記ご利用下さい。)
詳細 http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/1015/index.html
会場 http://www.imageforum.co.jp/theatre/access/
他の若い作家さんたちの作品は力作が多いので上記上映も楽しめると思います。 映像表現だけでなく、すでにインスタレーションやパフォーマンス、造形作家としてで活躍されている方の作品もあります。将来が楽しみな新しい監督たちです。 夢があることは素晴らしいことですね。
なお、映画化でカットした部分含めた、Regeneration(完全版)として、4月以降サロンにて公開します。コースの説明会や、体験会などで、ご披露できればと思います。完全版が観たい方はそちらでもどうぞ。
今週の映画館上映が終わったらあたりで案内します。
デトックスということを考えていました。
環境破壊から空気や食べ物から体内に入ってくる様々なもの。国の決めた基準により許容範囲ということで体に入ってくる水銀などの重金属類、化学物質などをいかに体の外に出していくか。どれも我々の意識の外、無意識に体が行なっていることなので、意識は何をサポートしていけばいいのか。そうした体内に無い方がいい物質をデトックスしていくにはどうしたらいいのか。
体内に入れるもの、大きく分けると空気、食事、そして情報という3つのものを我々は取り入れています。情報というのは、重金属では無いですが、我々の考え方や感じ方に作用します。ストレス源にもなります。また過剰だと自分を圧倒し、自分という信念体系を脅かします。感情を揺り動かし、疲労や過剰反応を誘います。
何を自分に取り入れるか、我々の習慣、身の回りのものとの関係性、気づきにかかってきていると言えます。空気は、なかなか防ぎようが無いですが、我が家では気休め程度に空気清浄機3台置いてあります。あとはpm2.5情報チェックし、防塵マスクをするとかくらいですかね。メインは食べ物ですがデトックスフードというのは!植物繊維とか多糖類とか乳酸菌とか、多分皆さんの方が詳しいと思います。
ボディワークでは、体の繋がりや循環をよくしていく事は、実はデトックス力の向上にも大変有効です。意識が及ばない部分で、体の流れがよくなり、デトックス力が高まっていくと言えます。リンパ体系における循環では、筋肉が心臓の代わりと言えます。体を全部使うことは、体のホメオタスシスを高めていくことに繋がるのです。これからは体と意識は協力しあって健康であろうとしないといけない、大変な時代になってきました。デトックス、物質でないもののデトックスはディスチャージと呼びます。身体的な放電って感じですかね。外に出せるものは全部出して、健康でいるための体の力を維持して行きましょう。
さてサプリの話をしようと思ってたところ、下記の本は、発達障害をデトックスという切り口から治す本がありました。発達障害の原因が重金属だけでは無いかもしれませんが、重金属をデトックスすることは今の体、そして未来の体にとって大事なことです。
また今話題の発達障害については、関係無いと思う人もいらっしゃるかも知れませんが、大人の発達障害というのもあります。現状分析など、全体的なことがわかり、一つの指針になる気がしますので紹介します。
発達障害を治す (幻冬舎新書)
日本では、子どもが発達障害と診断された親は「原因不明で治療法はない」と宣告される。一方、世界的には、遺伝子研究の立場から発症原因の探求が続いている。その結果、近年、遺伝子の微小な変異である遺伝子多型と有害な環境汚染物質とが相乗的に作用していることが分かってきた。遺伝子を調べ、体内に蓄積した有害物質をデトックスし、必要なビタミンを投与することで、さまざまな症状は改善する――。臨床現場で成果を上げる医師が解説する、発症のしくみと、革命的治療法。
さて、Regenerationの中で、象徴的に描いたゾウですが、何度かでてきます。
インドの神話では、ゾウは世界を支える存在として描かれます。ヒンドゥー教には、ゾウの頭を持つガネーシャと呼ばれる神様います。仏教では歓喜天に当たり、シヴァ神の長男で富と繁栄の神様とされますね。東南アジアでも白いゾウは、神聖視されました。釈迦は白象の姿で母胎に入ったといわれていますし、普賢菩薩の乗る霊獣として描かれるます。
また生物学的に見るとゾウは4000グラムの脳をもち人間より重いのです。ただし人間とは構成が違います。人間は大脳皮質が巨大です。ゾウの脳は別のバランスで構成されています。バランスでいうと、人間だと、女性より男性の方が少し脳が大きいのですが、その大きい分、少し無駄なことを考えたり、余計なことを行ったりするようです。
映画の話に戻ると、映画の中で出てくるのは以下の7つのシーンです。
1横顔(プロフィール)のシーンでゆっくり歩くことを象に例えるナレーション。
2タイで象に乗った写真。
3そして現実への対処がうまくできなくなった時(意識に)現れた黒い象。
4黒い象が連れて行った夢の世界で出会った白い象。
5帰りに魔法使いに貰った小さい白い象のフィギア。
6僕が来てた黒い象のTシャツ。
7実際の象の置物の歩みと横顔。
ゾウという切り口で、物語を読み解くと、表現力が足りてませんが、こんな感じになります。(物語1)
娘が誕生して以来、自分のペースを超えるリズムで僕は生き始め、それを自分だと思い込んでいた。半分は娘が生まれたこと、もう半分は父の死によってその僕は作られた。そのペースで僕は運用された、結果的にいうと、そのリズムで仕事はうまくいきだし、父という役割、夫という役割、経営者という役割を楽しんだ。前に進むことの楽しさの中に行きていった。そして15年が過ぎ、親たちの異変と介護の中、僕のリズムに変調がでて、僕を立ち止まらせた。僕は、再構築され、元の自分のリズムに戻っていった。その19年間の歴史を影から支えていたのは、ゾウに例えられた身体知性、ホメオスタシスであり、その切り替えをやったのは、僕がイールドした時に、現れたゾウの登場シーンでバックで流れているゆったりしたリズムは、クラニオセイクラルリズムです。
気がつけば19年時間が過ぎていた。(なんか浦島太郎のような話です)、赤ちゃんだった娘は大学生になり、ベビーベッドは車になった。高い高いで喜んでいた彼女は、対話できる存在となった。現実に残されたのは白い小ゾウのみ。その歩みを眺めながら僕はまた自分のペースで歩みだす。区変わらないもの、変わりゆく風景を眺める僕が、気づき、歩き始める。ところで映画は終わります。僕が歩いていく方向と、逆に自転車に乗ったお母さんと子供が走っていきます。(どこの家庭もそんなもんでしょう?笑)
セッションが終わって立ち上がった時に、視界がぐわーっと開いて見える世界が変わってたとか。いつもと違う拡がり感、まるで魚眼レンズをつけたみたいに、見えたことがあった。とにかく身体がいつもと違う感じになる。
別のある時、身体が卵をむいた殻で包まれていて、その殻を内から外に打ち破ろうとする圧力みたいなものを感じた。
帰り道、自分の足で歩くのが楽しくなる。というのを毎回感じていた。今まで、左足をかばって歩く感じだった。イメージでいうと左足は壊れていて、自分の中で少し出来損ないのように感じていた。ちょっと劣ってるやつみたいな感じ。それがやればできるじゃん!みたいな感覚が持てた。ちゃんと使ってあげることで、より自分の脚として感じられた。嬉しい。(→全文)
(ロルファーコメント)
ロルフィングの感想は人それぞれにバラバラで、その人の知覚に依存しています。身体がいい、悪いではなくて、ちょっと新しい体験をしてみたいなんていう人にもお勧めしたい。平凡な日常にさようなら、次へ生きたい時なんか、身体から変われると、とても分かりやすいです。実は僕自身、この方と同じように、身体的な知覚の広がりが、あまりに驚きで、今ロルファーになっている次第です。
パラレルという言葉を初めて知ったのは学生時代のスキーでした。まだ若かったので習得も早く、何度か行くうちにスキー初心者もやがてパラレルで滑るようになりました。
パラレルというのは平行という意味で、スキーだと板を揃えて滑る滑り方ですが、SFやアニメの世界では、パラレルワールド、別の世界の展開、を題材にした作品は、定番のテーマと言えるくらいたくさん作られています。科学の世界でも最近は議論されるテーマです。
ちょっと定義してみます。パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)をさします。現実世界に対して別世界は、異界、魔界、四次元世界など表されますが、それとは違い、パラレルワールドは、我々の宇宙と同一の次元を持っていることがポイントです。
別の世界でなくて、同一の次元を持っている。同じ心と身体で、行き来出来る世界ということです。僕のクライアントでSF好きな人がいて、セッションが終わると、「うわーこの感じパラレルワールドにやってきた!」と言ってくれます。セッション終わった時のあの感じ、「そうそう!」って思うクライアントもいるし、「え?私はそうでもない」というクライアントもいるだろうし、「ん?怪しい!」、「きゃー怖い」と不安に陥るブログ読者もいるでしょうね。
二次元の世界で、原作とは違う設定や世界観を使ってキャラクターを動かす手法もパラレルストーリーと呼びますし、映画などで、いくつかの平行した物語が交錯して一つの作品が作られる時に、パラレルな展開で物語が進んでいく。などといいますね。マンガや映画好きの人は、現実と想像のファンタジー世界と言語世界がパラレルに交錯している人も多いので、ロルフィング受けると、現実世界は、身体上に、パラレルワールドが現れて、パラダイムシフトになる場合もあります。時空を超えていくセッションでもあります。
現実を抑圧しすぎて、心身症に陥るよりは、平行宇宙の扉を開いてパラレルワールドに冒険の旅に出ていくのも悪くないと思います。冒険心はいつの時代も大切なことだと僕は思います。また魔界や異界に行きたい人も一年を通じるとある一定の頻度でいらっしゃいます。現実の世界もあまりに、いい!悪い!と判断しすぎて、自分ベースで一元化せずに、少しパラレルに動いていく自分自身をぼーっと眺めているように生きている方が人生、面白いかも知れません。
少し話が脱線しました。 スキーに話を戻しますが、ヴォーゲンやシュテムで滑っていた滑りからパラレルで滑り始めた時、滑っていく現実が変わった気がしました。別のもう1つのものを受け入れた時に見えてきた世界。まさに同じ場所でパラレルワールドを垣間見た瞬間、発見した新しい空間で、その光景は時間を超えて今でも忘れません。
追記
パラリンピックは、もう1つのオリンピック。パラレル+オリンピックと再定義されています。オリンピックと平行して開催され、同じ時、同じ空間を使ったもう1つのオリンピックとして年々、見出されてきています。そしてオリンピックよりも力強く我々の世界観をサポートし始めています。